八千代の俳人たち その2
『俳諧百吟逸趣』のこと

 俳句の研究に必要ないろいろな史料・資料
を探していたが、ふとしたことで『俳諧百吟逸
趣』の存在を知り得た。それは『船橋法人会
会報』56号平成5年3月(1993)に綿貫啓一氏
(当時船橋市史編纂委員会事務局)が「升月
亭居山」の記事で『俳諧百吟逸趣』を紹介さ
れ、それには80人及ぶ近在近郷の俳人の似
顔絵と俳句、住所等を収録。その中の吉橋八
幡神社俳額の一人八木ヶ谷「里月」の句を紹
介していた。
そこで『俳諧百吟逸趣』には八千代の俳人の
名前もあるのではとの期待感をいだいた。早
速、村田会長に紹介の労を執って頂き、綿貫
氏にお会いしてその複版を閲覧することが出
来た。『俳諧百吟逸趣』は裏書きによると明治
29年4月印刷編集発行人士族 長井総太郎
 企画 升月亭居山 八木ヶ谷豊睦会であ
る。収録されている俳人は八木ヶ谷近郷の町
村で八千代市は萱田以下13の町村、俳人数
は24名である。その中には米本の東洲他3
名、島田梅盟他3名、他は1−2名で吉橋の
俳人は皆無であった。
この俳人の分布は、後で分かったのであるが
八千代市の俳人活動を示すものであった。
米本には東洲、島田には梅盟、下高野には
三省、吉橋には華山という指導者がそれぞれ
の地域で地を堅めていたと思われるのだ。特
に吉橋の華山派は『俳諧百吟逸趣』に 一人も
顔を出していないほど居山派に勝るとも劣ら
ない勢力であった。それは八千代市六枚の俳
額に入集した俳人の数でも吉橋がトップで21
名と2位の米本16名を離していて両者併せて
俳人総数の約30%に達する。  
升月亭居山と長井総太郎のこと

 八千代の俳人ではないが当時近在近郷の俳
人たちに大きな影響をを与えた人物である。
居山は本名湯浅八郎左衛門といい、文政9年
小野田村で生まれた。21歳の時八木ヶ谷の
湯浅家の養子になり、やがて家督を譲られ父
祖以来の八郎左衛門を襲名した。文久2年36
歳の時邸内に私塾を開き村内、隣村の子弟に
読み書きを教え、その後隠居してからは、俳諧
に力を入れ同好の士を邸内に集め句会を開
き、また、近在近郷の若者たちへの俳諧指導
に晩年の情熱を注いだ。船橋に残る7枚の内
3枚が居山が主となって奉納した句額である。
そのほか八千代市にも撰者として高本八幡、
湯浅灸堂の2枚がある。明治29年『俳諧百吟
逸趣』を企画し上梓翌30年4月病を得て72才
で死去した。八木ヶ谷長福寺に勉学、俳諧の
弟子達が建てた居山追悼顕彰碑がある。
また、印刷編集発行人 士族 長井総太郎 と
は、明治大正昭和と活躍した文士鴬亭金升
である。領主旗本長井筑前守昌信の子で明治
元年戊辰戦争の時難を逃れて母が八木ヶ谷に
身を寄せていた時に生まれた。新聞記者、戯
作舎、として活躍、落語、俗曲、都々逸、狂
歌、雑俳など幅広く手がけ通人として知られ
た。居山とは43才も年が離れていたが、お互
いに気が合って友好を交わした。居山の企画
を聞き、編集発行を手伝い後年に貴重な史料
となる『俳諧百吟逸趣』を残した。雅号鴬亭金
升とは、「近くに来たら(おおて、いきんしよう)」
の洒落だとも言われている。
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